西平の橋

 
 西平橋は、かつて山間の小さな集落が単独で維持管理をせざるを得なかった、かなり大きな橋梁です。
 明治年間の記録が、天城湯ヶ島町の橋としては比較的多く残されています。橋梁の受けた災害と、それへの住民の対応を通し、当時の生活様式が分かります。
 西平区引継書にみる西平橋の流出及びその災害への対応をたどってみます。

明治4年創設の橋

 言い伝えられてきた話や、公図に残る赤線からの推測によれば、「明治4年創設」の橋は、現在の西平橋よりやや下流に架けられていたと想像されます。
 どのような構造の橋であったかはわかりません。しかし、「橋つなぎ番」という役割の住民の名が毎年数人書き連ねられていたことなどを考えますと、橋は川岸に末端をつながれ、増水時には中央がはずれることを前提にした、丸木橋かそれに近い構造のものであったろうと推測されます。
 この橋が、構造上、より多くの労働を西平区民に強いたであろう事は、区内の橋梁維持管理のため、「橋金」とよばれる備蓄が区にあったらしいこと、後に「橋資本講」あるいは「橋無尽」とよばれる私的金融組織に成長しやがて解体していった模様であることを考え、やむを得なかったと考えられます。
 明治25年生まれの齋藤仙三翁の「西平の思い出」の中に、「橋は、河川をはさむ地域住民の、生活をつなぐ構築物である反面、明治初期、洪水の災いを直接住民の暮らしむきに架けわたしてくる、厄介な存在でもあった」と書きとめています。  

荷車時代の橋

 明治13年建造とされる2代目の橋は「ソリ(反り)橋」と言ったそうです。
 年に何回となく、多い時は月に何度も洪水で橋が流れる。そこで今の緒明別荘の門前から橋場まで新道をつくり、新しい橋を架けたそうです。立派な橋で、毎日見物人でにぎわっていたそうです。
 この架橋に要した金額は、当時の西平組一般会計の5年分を上回っており、わずか39戸の山間集落が、単独で成し遂げた事業として、高く評価されました。
 その後「木材の搬出も荷車から馬力に代わり、反り橋では不便で掛け替えになった」とのこと、「ソリ橋」は13年間のつとめを果たし「欅の橋」に掛け替えられました。  

馬車時代の橋

 3代目の「欅の橋」は明治26年から27年にかけて造られたと言われていますが、橋梁本体の工事請負人も請負額も詳細な記録がありません。しかし、この時代すでに湯ケ島村はなく、上狩野村が誕生していて、上狩野村、湯ケ島財産区いずれも「欅の橋」の工事費の支弁はしていませんので、区民の負担の大変だった様子を伺い知ることが出来ます。
 「欅の橋」は竣工後半年足らずで災害を受け、当時の西平区40戸の大半の人々が復旧作業の人足に出たとされています。この橋の寿命は短く、架橋後4年で流出してしまいました。   

4代目の橋

 架橋工事は明治32年に行われました。
 「人足帳」によれば、西平組41戸及び寄留人15人を併せて987人工7分がこの橋梁工事に参加したことを記しています。
 また、総工費ですが「1032円21銭3厘」に「縄120房」を加えた金額ということで、西平区民におよそ一般会計4年分を負担させたことになります。
 この橋はその後、明治40年に修繕工事を行いましたが、大正時代に入って傷みが激しくなり、5代目に架け替えられたと言うことです。  

5代目の橋

 「大正11年西平橋並道路改修工事勘定帳西平区」によれば、西平住民54戸の各戸の人工総数は671人、そのほか5人の役員80人工、かなり大規模なで橋の架け替え工事が行われた模様です。
 この年、関東大震災の前触れともいえる地震があり、伊豆地方に及ぶ、と言われていますが、西平橋はこの余震に耐えました。
 

6・7代目と現在の橋

 翌年9月の関東大震災で被災し、6代目の橋が誕生したということです。  大正13年、松崎街道は県道に編入され、「欄干橋」といわれたこの優美な木橋は、その面影を残した鉄橋に、昭和25年に架け替えられました。
 昭和33年9月26日狩野川台風の激流に堪え切れず、7代目の鉄橋は、橋の桁上を水が越えるに及んで、炸裂音とともに姿を消しました。
 翌34年、現在の西平橋が架けられ、現在に至っています。 
昭和9年頃の西平橋、馬がわたっています。
 昭和25年に開通した西平橋、狩野川台風で流出。