田沢橋の変遷

渡し船

 田沢で船を造った記録があります。なぜ、と驚くでしょうが、当時田沢から対岸の月ヶ瀬にわたるためには、渡し船しか手段がなかったからです。
 船の大きさなど不明ですが、渡し場は現在の田沢橋の位置らしく、当時は川幅15メートル、長さ50メートル程の大きな淵になっていて、月ヶ瀬側には、大きな岩場が突き出ていて、船を寄せるに格好な淀をつくっていました。
 この渡し船は、明治11年から18年までの6年2カ月と言われています。

田沢橋第1号

 明治18年1月18日着工、1月25日完成とスピーディに進められました。
 橋材は松の大木で、伐採搬出に大変苦労したとの言い伝えがあります。

田方郡田沢橋第2の橋

 1号橋から4年目、名称も「田方郡田沢橋」といい、1号橋が市山地先の住民の協力を得たとは言え、田沢組が自力で架橋しているのに、今回は月ヶ瀬、門野原、市山、矢熊の隣接4組から補助人夫として大量の出役を受けたと言われています。
 道路橋梁等の公共の事業に対し、災害時の救援活動と同じように、相互援助の慣行が古くからあったものと考えられます。
 架橋は8月28日から9月15日までかかり、天城山から橋材を搬出するのに、延べ457人を要したと言われ、前回とは比べ物にならないほど大掛かりだった様子がうかがえます。

第2の橋以後

 第2の橋以後も、引き続きこのコースが下田街道に通ずる田沢の中央道でした。
 小又川から中島を通っての道が開かれるまでと、その後20有余年第2の橋が存在していた事になります。しかし、その間橋の架け替えがどのようになされたものか、資料に乏しく不明です。
 橋は田沢の生命でした。

中島と小又川橋と今川橋

 田沢地先、狩野川の真中に、広さ約1ヘクタールの舟形の島がありました。
 川の中の島でしたから「中島」と命名されていました。
 明治になって島の西南隅に温泉が発掘され、旅籠も出来、小又川橋、今川橋の吊り橋2橋が造られました。昭和16年、慶応義塾大学がこの泉質に注目し、島ごと旅館を買収し、温泉治療学研究所を設立しましたが、昭和33年の狩野川台風により橋とともに島ごと流出してしまいました。

鉄筋コンクリートの田沢橋

 昭和5年の北伊豆地震を契機に、田沢の本通りが、川久保地先から対岸の月ヶ瀬本郷を経て、下田街道に接続する昔の路線に戻りました。
 区内の2つの橋が地震で損壊を受け、道路も決壊して全面普通となり大変な不自由を強いられていました。
 このような状況から、新道として村道53号線の認可を受け、昭和7年、鉄筋コンクリートの新田沢橋の架設が実現しました。
 この橋は永久橋として、様々な問題が解決されたかに見えましたが、昭和33年の狩野川台風により跡形もなく流出してしまいました。

鉄筋コンクリート第2橋

 狩野川台風は、橋梁のほとんどを流出させ、修善寺から上流で流出を免れたのは、矢熊橋1つでした。
 永久橋と思われた鉄筋1号田沢橋の流出は、区民にとって重大事でした。
 第2橋は、狩野川台風を教訓とし、橋をダムにしないよう、橋台を1本とし、高さを旧橋脚より1メートル高くして建設しました。