矢熊への出入りは、雲金方面からの交通が主流であり、今も木戸口の地名が残っています。
 対岸の月ケ瀬との往来は、狩野川を渡る必要があり、常に困難が伴っていたようです。ここでは、矢熊橋の移り変わりをご紹介いたします。

 板橋
 丸太に木挽きをかけ、その板を飛び石づたいにかけたものです。
 当時は筏流しがさかんに行われていた時代でした。そのため、筏が橋の下を通過できるように、橋の高さは水面上70〜80センチメートルであったと推定されます。
 筏の船頭は、その時橋に飛び乗ったと伝えられています。板の橋であるため、大水のときは簡単に流されたそうです。そのため、熊野山中に「橋木山」をもうけ、橋の材料にしたと言われています。

 つり橋(明治30年11月、翌年流される)
 高さは12メートルと言われ、かなりの高さでした。これについては、『温古誌』に次のように記されています。
 「明治30年11月26日、矢熊橋架橋式あり。以前の橋は板渡木橋にて歩行危険数回人を損ねし事あり、今般矢熊区民共有の金円と上・中・下狩野村三村の有志の義援金とを以て堅牢の架橋をなせり、橋台石造、橋げた鉄、西洋形の吊り橋なり、水面より高15尺、長154尺、幅9尺、明治31年5月大雨洪水につき流出、再び明治33年架橋4月落成、日本形木橋造、水面より高19尺、長114尺、幅9尺」。

 木橋(明治33年4月)

 鉄橋(大正時代中頃)
 この橋は、完成直後に流出したとのこと。当時の設計図は今も残っています。

 木橋(昭和24年)

 コンクリート橋(昭和33年)
 狩野川台風の直前に完成しました。位置が高いこともあり、かろうじて難を免れ、東西の往来に大変な役割を果たしました。

 コンクリート橋(平成10年3月〜現在)
 川からの高さ13メートル、(橋脚の一番下までは10メートル)長さ51メートル幅11.25メートル現在技術が集積された橋です。建設当時は、将来伊豆縦貫道の国道414号からの取り入れ口になる計画だったため、その分を見越した近代的な橋になりました。