「やぐま」矢熊と書きます。矢で熊を射て生活していた訳ではないことは、当地に熊がいないことからも証明されています。天支火山の溶岩で固まった岩が、あちこちにあったり、猪や鹿が山に食物がなくなって、人間界に降りてきて、庭先の野菜を食したりで、猪や鹿の言葉が理解出来るような、寛大な心を持たなければ鳥獣と生活が共にできないかもしれません。
 ここでは、戸数の限定・天支への道・お茶年貢鮎年貢・赤井野の赤石などについてご紹介します。

      

 戸数の限定
 現在、地区内には43世帯がありますが、居住できる戸数はずっと34戸とされていました。いつから、そしてなぜ34戸にしたのは、はっきりしませんが、安政の頃にはすでに決まっていたようです。
 これは、耕地が限定されていたため、地区内の住民の生活を守るために、住民の総意で決まった政策で、このような決まりは、天城湯ケ島の他地区にもあります。
 このため、だんご3兄弟と言われても、当地区においてそれは小さい内だけ、2男・3男は地区外に出る決まりになっていました。現在「矢熊橋」近くの通称「しのっぱら」に4軒残るのはその遺構です。
 この人達は、消防・婦人会・寺・神社・役仕事(村役−せぎこさえ)などは、地区内と同じように行い、これは、つい最近まで続けられていました。
 地区には「舞台」という地名があり、あたかも歌舞伎が演じられていたような感じがします。
 地名が偶然に定まったか、意図的につけられたかは不明ですが、多忙な日々を送った当時の山村の生活にロマンと安らぎを与えてくれる話です。

 天支への道(伊東道)
 この道は、狩野の洞(谷)の動脈として、産物を伊東へ運んだ道です。地域からは林産物(炭やしいたけ)、繭、お茶などが伊東経由で江戸へ送られました。かわりに海産物が入ってきたと言われます。この道は、今は舗装され、中伊豆地区の筏場へ抜けています。昔は県道に指定されていたことも納得できます。

 お茶年貢・鮎年貢
 お茶年貢は、年貢米のかわりとしてお茶を出したもので、山中に入るとお茶の木が多いのはその名残です。
 鮎年貢は、ヤナ漁の権利の代償としてのものであり、今も当時の資料が残っています。

 赤井野の赤石
 田沢地区に噴火口を持つ火山の爆発(推定2万年前)により、多くの溶岩が噴出されました。赤井野にある赤石もその一つで付近には黒石もあります。
 このほか、地区内には規模の小さな溶岩のかたまりが、多数あります。