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伊豆市田代に「田代冠者信綱」の墓と伝えられるものがあります。 信綱は源頼朝の蛭ヶ小島の挙兵、平家追討の三草山、一の谷、屋島、壇の浦の合戦に 義経の軍監(指揮官の補佐役)として従い大きな功績を挙げました。
信綱は源為綱(藤原為綱)が伊豆の国司として赴任していた折に、狩野の豪族 狩野茂光の娘と恋仲となり、一子信綱をもうけました。 為綱が任期も終わり都へ帰る時、まだ信綱が幼かったので、祖父茂光夫婦が 手離すことを許さず茂光のところへ留めた。 その後十一歳の時蛭ヶ小島配流中の頼朝に見参し、頼朝の家臣となり田代を 領地として与えられ、元服して「田代冠者信綱」と名乗った。 (源平盛衰記、平家物語、吾妻鏡など)
「豆州志稿」に地名として「殿の御城」「御屋敷」「御殿」等の田があって、 かっては古器などが出たと書かれている。
砦は物見台てきな存在で山麓の屋敷に重点をおいたのではなかったかと思われる。 5枚目の写真の田代と加殿の境のところが屋敷跡ではないかと言われているようですが。 尚 函南町田代に「田代冠者信綱」が田代砦から移った「田代城」の城跡が あります。
尚、尚、5枚目の写真の真ん中の山は愛宕山で「柏久保城」があったところです。(「柏久保城」に続く)
修善寺東小学校ホームページ・伊豆のマホロバ丹那ホームページ・城址関係のホームページ・ 小林豊著「修善寺の歴史」などを参考にしました。 写真は05年9月8日に撮ったものです。
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