天城峠の変遷

(写真:峠旧道の川端文学碑)

 我が町を代表する峠は何と言っても「天城峠」伊豆は長い間、天城連山によって南北に分断されていました。
 天城越えの陸路の建設は、時代毎の命題でありましたが、道路づくりは急峻な地形にはねのけられ、困難を極めました。
 このため、道は切り立った崖の上、岩を刻んだ階段等にもつくられ、天城越えで尊い命を捨てた人も少なくありません。
 一方、「天城」という地名は「雨」に由来しているとも言われています。地形的に雨量が多く、自然災害を受けやすい天城山岳地域の街道は、峠の場所そのものにとっても、変遷を重ねざるを得ない状況だったと言えます。
 新山峠  室町期以前の峠です
 古峠  室町期から寛政時代にかけての峠です。
 中間業  (ちゅうけんぎょう)寛政時代から文政2年(1460年〜1820年)にかけての峠です。
二本杉峠  文政2年(1820)以後の峠です。幕末、下田にアメリカ領事館がおかれていたころは、江戸の幕府と領事館を結び、外交使節団が往来しました。まさに「日本開国の道」です。
 しかし、下田から三島へ通じていたとは言うものの、途中の天城路は難所中の難所でした。このほか、江戸後期の天城越えに登場する人物は、老中松平定信、タウンゼントハリス、吉田松陰、唐人お吉など、この峠をよく利用したと言われています。
 天城峠
旧トンネル
   峠、トンネルとも数多くの文学作品の舞台となっています。
 ノーベル賞を受賞した川端康成の代表作「伊豆の踊子」は、天城峠が始まりです。この名作にあこがれて、この地を訪れる人々もたえません。
 明治38年に開通した天城トンネルは当時のまま、実に周辺の四季の彩りにマッチする天城のシンボルです。