歴史の道

 

難所中の難所

 下田街道については、その詳細は明らかではありませんが、伊豆半島北部の田方平野では、現在の国道414号線沿いに、あるいはこれと交差しながらこの道筋にほぼ定着して行ったものと思われます。
 これより南下すれば、湯ケ島から天城峠、小鍋峠を経て奥伊豆に入ります。この奥伊豆への山道は、急峻な天城の峰峰をぬって南伊豆・下田へ通じていました。
 このように下田街道は、三島から下田まで通じていたとは言うものの、途中の天城路はまさに難所中の難所でした。

人馬継立場

 伊豆半島が、天城山系によって南北に分けられるような地形であったため、南伊豆では海路に依っていたこともあって、陸路の整備は大幅に遅れ、この街道に原木・大仁・湯ケ島・梨本・箕作の人馬継立場が設けられたのは江戸中期と言われます。
 しかし、寛政5年(1793)度々の異国船接近に対する海防上の必要から、老中松平定信らからなる伊豆巡見が行われ、これを契機としてこの街道にもやっと活気がもたらされることとなったようです。

幕末の天城路

 幕末の狂歌「太平のねむりをさます上喜撰、たった四はいで夜もねられず」の頃の天城路は、次のようでした。
 下田には、安政2年(1855)に下田奉行所が設けられ、ここを舞台に幕末の条約交渉が展開されていたのですが、玉泉寺(下田)に置かれたアメリカ領事館の初代総領事ハリスが通商条約締結のため江戸に上った時の一行の日記に詳しく記されています。
 その一節、「やがて天城路にさしかかる深い谷に、ほとんど垂直に切り立った崖に道がつけられており、所々に岩をきざんだ階段がつくられている。路は狭く、鋭角で馬の蹄を置く所なく・・・ようやく峠を越えて湯ケ島に着く、今日の路は道路ではなく通路とも言うべきものだ」と記され、日本海国の曙には、天城越えが一大難事であったことが伺われます。  
   
  周辺には、うっそうと生い茂るヒメシャラが。