船原土肥道

 
 船原から土肥へ通ずる道を、土地の人達は「土肥道」と呼んでいました。
 この道は、昔から西伊豆と中伊豆を結ぶ重要な道でした。しかし、峠越えの急峻なこの山道の通行は、徒歩か馬に頼る外になく、どれくらい旅人を悩ませたかわかりません。
 当時を知る資料としては、天保年間(160年前)に作成された船原絵図しかなく、この絵図によれば、道はほぼ船原川に沿って、峠に達しています。
 

昔は橋架けが年中行事

 船原道と川向こうの人家を結ぶ渡しは、数箇所ありましたが、橋らしい橋と言えば船原温泉橋と落合橋くらいで、丸太を渡した橋や石を並べて橋代わりにした「とびっそ」が各地に見られたようです。
 したがって、大雨には橋が流されて、利用者総出で橋架けを行うことが年中行事のように繰り返され、住民を悩ましたと言うことです。
 船原新田から峠に至る6キロの間は、山道でつづら折りの急坂をのぼり、峠にたどり着くと冬でも汗が吹き出るほどでした。  

身代わり地蔵・石の地蔵

 その頃は年に1、2回は必ず上船原80余戸の人々が総出で雑木や雑草を刈り払い、荒れた箇所の修理を行いました。
 峠には数基の地蔵尊や廻国供養塔などがありました。峠まで上りつめた旅人は、地蔵尊などの前で腰を下ろして一休みしながら、土肥港を目指して下るのが常であったと言います。
 この峠は、しばしば追いはぎが出たという寂しい話もありますが、船原峠の身代わり地蔵尊の伝説は、石の地蔵尊が貞女の身代わりになって助けた、という、美しい話もあります。