足立文太郎博士
・略年譜     
1865年(慶応元)  伊豆上狩野村に生まれる
1894年(明治27) 帝国(東京)大学医科卒業
1899年(明治32) ドイツに入学
1904年(明治37) 京都帝国大学医学部教授となる。
             同大学医学部部長となる。
             日本学士院会員となる。
             大阪高医(大阪医大)初代校長となる。
1930年(昭和5)  「日本人の動脈系統」の研究で日本学士
             院賞受賞。
1954年(昭和20) 81歳で逝去

 足立文太郎博士は、慶応元年(1865)6月、田方郡天城湯ケ島町(旧上狩野村)に生まれました。
 第一高等学校を経て、明治27年(1894)東京大学医学部を卒業しました。学生時代から解剖学の研究を志し、医学部卒業後、直ちに解剖学者としてスタートしました。
 博士が解剖学を志した理由は、筋肉、神経、血管、内臓など人体軟部の人種的差異に気づき、また欧米の解剖学の模倣でない、日本人を対象にした日本の解剖学を確立しようとしたからです。
 博士は明治32年(1899)から同37年(1904)までドイツのストラスブルグ大学に留学、帰国後、京都大学医学部教授、同大医学部長を経て日本学士会員に推されたましが、その間畢生の事業である日本人体質の研究に没頭、軟部人類学の創設者として、学界に重きをなしました。
 この間、革靴を買う経済的な余裕もなく、ゴム靴や高下駄ばきで大学へ通い、タバコもナタマメぎせるできざみタバコをすい、大学の小使とまちがえられた時期を長い間続けていました。また一方では、豪放右柘落斗酒なお辞せずという一面もあり弟子たちから未だに慕われています。
 研究に没頭するあまり家計は非常に苦しかったようでした。しかし初志をまげず、その業績は、日本学士院恩賜賞、日本ゲーテ協会第一回ゲーテ賞、ドイツ政府から贈られた赤十字第一等名誉賞を始めとしドイツ、ロシア、オーストリア、ポーランド、アルゼンチン各国学士院から名誉会員に推されるなど、数々の栄誉に飾られています。
 晩年大阪高等医学専門学校(現在大阪医科大学)の初代校長ともなり、昭和20年(1945)4月1日京都市左京区神楽岡町の自邸で逝去されています。享年81歳。
 なくなるまで50年研究を続け、主な著書に「日本人動脈系統の研究」「日本人静脈系統の研究」(いずれも独文)、「日本人体質の研究」(和文)等があります。
 世界的な医学者でした。
 現在、井上靖先生の撰文を背面にもった彼の頼彰碑が母校湯ケ島小学校に建立されています。碑文は博士の筆になる「懸命不動」です。