福井精兵衛さんの略年譜
1778年(安永7) 狩野郷持越に生まれる。
1833年(天保4) 土肥港に通ずる道路の開削。
1847年(嘉永元) 土肥港に通ずる道路の完成。
1864年(文久4) 吉奈への道、茅野新田への道路開削、改修。
1866年(慶応2) 逝去。享年88歳。
 福井精兵衛さんは、1778年(安永7年)狩野郷持越村(現在の天城湯ヶ島町持越)に生まれました。
 当時の持越区は、天城山麓西端に位置し、他の集落との交通は極めて不便でした。
 その、主要交通路もほとんど狭隘な山道で、南無妙峠を越えて土肥港に通ずる道路も駄馬での交通さえも困難な道でした。

 彼は、この改良を志し、急坂を削って道幅を広げて交通を容易にするため、農閑期ともなれば、里人に呼びかけ、率先して改良の鍬を振りにました。この工事は、天宝4年着工以来実に15か年を費やし、峠までの道路が完成しました。
 吉奈白坂に通ずる道路と、茅野新田に通ずる道路2路線の完成も、元冶元年に着工し、数年の後完成しましたが、これによって陸の孤島にたとえられていた持越集落の交通事情は一変しました。
 また、彼は旅行者が道に迷うことがないよう、各道路の主要地転に道標を立ててまわりました。
 当時、持越集落には、約5町歩の水田が持越川を挟んで、日影、日向の2用水路により、作付けが行われていましたが、この主要用水路が不完全なため、潅漑についての苦労は甚だしいものがありました。
 彼は、この用水路改修をも考え、みんなに諮って、文政8年に日影用水路を、さらに嘉永8年日向用水路の改修をも完成させました。
 これらの諸事業にあたり、自ら周到な計画と綿密な設計をたてて、率先挺身しました。彼が使用した唐鍬、つるはしの柄は手状に摩滅していたと言われています。
 福井精兵衛さんは、勤勉実直で、特に愛郷精神に厚く、いい意味での世話好きで、みんなから「世話好き精兵衛さん」と呼ばれ、慕われていました。
 慶応3年、惜しまれつつ、88歳の生涯を閉じました。
 持越報徳社は、彼の功績を永久に伝えるため、平山口に顕彰碑を建てています。