板垣勘四郎翁 略年譜
1686年(貞享 3) 田方郡上狩野村(天城湯ヶ島町)湯ヶ島、百姓伝右衛門の長男と
して生まれる。
1737年(元文 2) 三島代官より天城湯ヶ島口の山守に任ぜられる。
1744年(延享 元) 三島代官の命により、椎茸栽培の師として安部郡有東木村(静
岡市有東木)に派遣される。
帰郷の際、山葵の苗を持ち帰り、天城山中岩尾の地に移植する。
1748年(寛延 元) 天城山中を見回り中、山犬に襲われ負傷する。
1751年(寛延 4) 「未年の荒れ」といわれる大水のあと、根が洗われるように山葵
を育てることがよいことに気付き、栽培に成功する。
1761年(宝暦11) 逝去。享年76歳。
天明5年(1785) から明治7年(1874)まで湯ヶ島村は板垣家へ年金を贈る。

 板垣勘四郎翁は、貞享3年(1,686)田方郡上狩野村湯ヶ島(天城湯ヶ島町)の百姓、伝右衛門の長男として生まれました。
 生誕2年後に「亥の満水」と呼ばれる大洪水がこの地方を襲い、農作物の被害や農家の流出により、多くの人命が失われました。
 また、宝永4年の富士山の大爆発で起こった地震や元禄11年、正徳3年にも大洪水に襲われるなど、相次ぐ災害の中で、貧しい農民たちは文字通り草の根を食べてやっと命をつなぐ生活をしていました。
 徳川吉宗が8代将軍になり、「享保の改革」を始めましたが、飢えに苦しむ湯ヶ島の貧しい農民を救うまでにはいたりませんでした。
 父を助けて農業に励んでいた勘四郎翁は、良質の炭が早く焼ける窯を工夫し、共同で木炭づくりをすることを村人に呼びかけ、生産しましたが、これだけでは、どん底の生活をしている村人を楽にするまでにはいたりませんでした。
 勘四郎翁は、一方で椎茸栽培の研究も重ねていました。
 シイの木に目印を入れておいた「鉈(なた)」の傷跡から、ある日たくさんの茸が生えているのに気付き、また、椎茸がたくさん生えているほだ木を将棋の駒程度に切って、シイ、クヌギ、コナラ等の木に打ち込んで、ほだ木にすると、良質の椎茸がたくさん生えることがわかり村人達にこの方法による椎茸栽培を奨励しました。
 勘四郎翁が、村人達に頼りにされ、慕われていることや椎茸栽培に熱心なことが三島の代官斎藤喜四郎の耳に入り、元文2年代官から天城湯ヶ島口の「山守り」を命ぜられました。
 延享元年、代官の命令で椎茸づくりの先生として、安部郡有東村(現在の静岡市)に出かけました。
 椎茸栽培の方法を教えながら、村を回っているうちに、地形や水質が湯ヶ島と似ていることに気付き、この地の「山葵(わさび)」が湯ヶ島でも作れないだろうかと考えました。
 村の明主は勘四郎翁の願いを聞いて心をうたれましたが、村のきまりで山葵をよその村人に分けてはならないことを伝えました。
 しかし、熱心に椎茸栽培方法を教えてくれた彼への感謝から、自分が罪を引き受ける決心をして、彼が湯ヶ島へ帰る前夜、そっと山葵の苗を譲ってくれました。
 勘四郎翁は、持ち帰った山葵の苗を「淨連の滝」の近くの清水を選んで植え、村人達にも奨励しました。しかし、山葵が思うように育たないので、止めていくものが次第に増えるとともに、彼の悪口をいうものまで出てきました。
 それでも勘四郎翁は、沢から沢を駆巡って、一日中水温12度前後の冷たい水の中で、重い石を掘り起こし、川底を平らにするだけの山葵田づくりの作業を続けましたが、60歳になろうとする身には、大変な重労働でした。
 嘉永元年、彼は天城山中を見回っているとき山犬の群れに襲われ、大怪我を負いました。そのため、山守りの勤めは止めざるを得ませんでしたが、山葵づくりへの情熱は、ますます燃え上がっていました。
 寛永4年、またもや伊豆を「未年の荒れ」と呼ばれた大洪水と山崩れが襲い、大被害をうけました。もちろん彼が精魂込めて作った山葵田も一夜で荒れ果ててしまいました。大水が去って、一ヵ月後、荒れた山葵田の復興に取りかかりましたが、流されなかった山葵の苗があちらこちらに残っており、不思議なことに一ヵ月前より、元気に育っていました。
 よく見ると、根がきれいに洗われて、小石の隙間にわずかに根が挟まっているだけでした。
 勘四郎翁は、はたと膝を打ち、一人大きく頷きました。
 それからは、根が水に晒されるような育で方の研究を重ねて夢にまで見た、立派な山葵づくりに成功しました。
 宝暦11年(1761)勘四郎翁は、苦難に満ちた76年の生涯を閉じました。