山田信治翁 略年譜
1865年(慶応 元) 中狩野村に生まれる。
1895年(明治28) 中狩野村村会議員5期、収入役、助役を経て村長に就
任すること2回。
1903年(明治36) 駿東実業銀行(現スルガ銀行)狩野代理店を創設。
1907年(明治40) 報徳社を設立。
1928年(昭和 3) 中狩野村保護造林土工森林組合を設立。
1953年(昭和28) 89歳の天寿を全う。

 山田信治翁は、慶応元年(1865)5月25日、中狩野村(天城湯ヶ島町)大平柿木の信平の良男として生まれました。
 明治12年3月村立狩野小学校を卒業、続いて静岡市林維純塾にて2か年間漢学を修め、さらに、県立豆陽学校で学び、明治18年卒業後家督を継ぎました。
 彼は、真面目で温厚なうえ、深い学識を持ち、若くして地域の指導者と言われ、多くの人々から敬愛されました。
 また、二宮尊徳に傾倒し、勤倹推譲の報徳精神こそ家を興し、地域を繁栄させる基であると地域住民に説き、遂に大平柿木報徳社を設立しました。
 この運営は、彼の指導の下に、全社員一致協力して報徳の精神を遵守して、家を整えるとともに400町歩に及ぶ山林を区有杯、社有林に変更して、全山植林を目標に植林を推進する一方、区内道路の改良、公共施設の地域づくりに邁進しました。
 以来70余年のたゆまぬ努力の結果、大平柿木区は、町内屈指の豊かで平和な模範地域となりました。これは区と報徳社の一体化による団結の結果であり、彼の秀れた見識と指導が実を結んだものといえます。
 また彼は、森林組合の設立を提唱し、村内主要林道の整備に早くした功績も特筆されます。
 中狩野村は、林野面積が全村域の85パーセントを占める農山村です。彼は「広大な山を活かすことは、村を生かすことである。」が持論でした。
 山を活かすには、林道の改良から始まるとし、昭和3年中狩野村保護造林、土工森林組合を設立し、初代組合長となりました。
 この組合により、施行された村内主要林道である延長8,667メートルの大平柿木線、本柿木線(延長2,508メートル)、数沢線(延長2,211メートル)の3林道はトラ      ックが通れる道となり、山林開発に大きな貢献をしています。この組合は、森林組合法の改正により、昭和17年現在の森林組合となりました。
 この時代、中狩野村には、まだ金融機関がありませんでした。しかし、村の発展を図るためには、金融機関が、是非必要であることを痛感した彼は、県立豆陽学校で同窓で親交のあった駿東実業銀行の頭取の岡野喜太郎を説得した結果、明治36年青羽根に同行の代理店が開設されました。この代理店は、後年駿河銀行狩野支店となりましたが、同村の農林業、商工業の発展に大きな貢献をしました。
 山田信治翁は、明治28年中狩野村村会議員に当選し、以来議員として5期努めましたが、その後、収入役・助役を各1期、村長を期歴任し、村づくりに尽力しました。
 昭和28年(1958)4月、89歳の天寿を全うしました。