本柿木の由来

 柿木の地名については、明応5(1496)年の北条早雲文書(もんじょ)に「柿木」天正9(1581)年の北条氏文書(もんじょ)に「柿木郷」とあります。
 また、文禄4(1595)年の大平柿木地詰帳があることから、このころ両村が別れたものと思われ、のちに本の字をつけたのでしょう。
 柿木名の由来については豆州志稿に「柿の木特に多いため村名とする」と記されていますが、柿木には狩野氏一族に由来する垣をめぐらせた館が多くあったところから、垣木が柿木に変わったものではないかとも考えられます。

 狩野氏ゆかりの地名

 城 (シロ)
狩野氏は修善寺の日向居館からこの地に城砦をきずき、一一五〇年ごろ、狩野全域の豪族となる。現在城跡がある。

 本城 (ホンジョウ)
 狩野氏一族全員が狩野城中で生活するのは不便なので、この地に居館をかまえたところと推測される。

 城山 (シロヤマ)
 城下の田で平時は一族が耕作したとおもわれる。

 城西 (シロノニシ)
 城につづく山で狩野城西郭(にしぐるわ)の一部にもなったとの推測もある。

 柿城 (カキシロ)
 月見山の麓(ふもと)でもあり、狩野氏一族の館があり、いわゆる城下集落であつたとおもわれる

 柿之元(カキノモト)
 この地の先に馬洗渕(まあらいぶち)という柿木川の渕があり、流人源頼朝が遠乗りして狩野城館をたびたびおとずれたが、そのおり、
愛馬の汗をながしたところといわれ、大岩に馬蹄(ばてい)跡がある。

 東海道 (ヒガシカイドウ)
 狩野氏直轄の東の領域、東垣土(かいど)がなまったもじのであろうか。
これにたいして大平柿木には西の領城をしめす西海道がある。これらは狩野氏有力者の墓地との説もある。

 月見山 (ツキミヤマ)
 狩野城にちかい小高い山。そこから狩野城や柿木一帯が双眺におさめられる景勝の地。城主狩野茂光(もちみつ)は毎年仲秋ここで観月の覿をもよおしたという。
蛭ケ小島から頼朝もたびたびまねかれ同席したともいわれる。

 狩野城(カノギ)
 1400年ごろ、狩野城(カノジョウ)のほかに柿木の中央で眺望のよい狩野城(カノギ)に館をきずくが、1491年、伊勢新九郎長氏(いせしんくろうながうじ)にせめられ、狩野一族の城館はことごとく落城。城主狩野道一(どういつ)は従者5人とともに脱出したが、修善寺で自刃、一族はたえた。

 松城 (マツシロ)
 この地にも狩野氏一族の松の木を主材とした館があつたのではないか。また、狩野城(カノギ)の完成をまつための仮の城、すなわち待城との説もある。

 花山道 (カサンドウ)
 岡の頂に笠見堂(かさみどう)という堂があるが、ここからは松ケ瀬の笠離明神(かさはずし明神=軽野神社)がみえたので笠見堂と称したものがなまって花山堂となったという。そしてまた、この位置から軽野神社の手前の仏山(狩野氏の前線の砦か)がみえることから、
ノロシとかの連絡用にもうけられたものともつたえられる。

 落越 (オツコシ)
 狩野茂光をたびたびおとずれた頼朝が、この地の民家でやすみ、愛馬に水をあたえたといわれる

 高岸 (タカギシ)
 狩野氏の重臣高岸氏がすんでいたところであるが、奥地赤崩(あかくずれ)原野に進出開拓したともかんがえられる。

 古屋敷 (フルヤシキ)                                              
 狩野氏最奥地の館があつたとつたえられる。その居舘跡地はさだかではない。

 中野 (ナカノ)
 柿木神社鎮座、狩野茂光在城のころ鎮守として城地のかたわらにまつられていた高根神をまつる。狩野城落城の哀史としてつたえられる「七人上ろう」がのがれていくとき、柿木神社にもうで所持した鏡一面を奉納したとつたえられ、現在社宝として所蔵している。


 狩野氏時代以後の地名

 花見ケ岡 (ハナミガオカ)
 織田信長が天下をとつた1576年ごろ、この地に曹言宗喜、普門山法泉寺が開山し、その後、しだれ桜うえた。
 毎年みごとな花をさかせ、さとびとが花見をするところから、花見ケ岡と名づけられたのではないかとおもわれる。

 瑞雲 (ズイウン)
 1661年、金剛山大龍寺(だいりゅうじ)が開山した。はじめは、小庵で山の中腹にあつたが、140年後の1800年里寺となる要から現在の瑞雲山にうつった。

 御燈ノ上 (ミトウノウエ)
 この地に堂宇(どうう)がある。常夜燈をともしたとつたえられる。
小字のなかにあるめずらしい名まえ
石神(いしがみ)  飯塚地内にある。
よしぼら 飯山田地内にある。葦洞の意味か。
馬洗渕 柿之元地先の柿木川の一部。馬を洗った場所。
はらんた 本城地内にある。意味は不明。
どうてん穴 松久連山山田地内。意味は不明。
あんでら屋敷 城之内地内。むかし、下村観音堂と称す。
じんでい 柿城地内。神田(じんでん)の意味か。
きえもと 楠ケ窪地内にある。意味は不明。
きんばた 柄沢(からさわ)地内にある。意味は不明。
つくれ場 牛馬に灸をすえたところ。
くねノ内 山田山地内にある。
はかだ 釜ケ平とコンノノ道下にある。墓田の意味か。
踊場(おどりば) コンノノ平にある。むかし、この地に社があつて舞を奉納したところからこの名がついたのではないか。屋号にもなっている。
馬道(うまみち) 赤坂にある。赤土のすべる坂道を難渋(なんじゅう)しながら馬がとおったところではなかろう
がんげ 瑞離地内。寺の門前をいう。石段(がんげ)の意味か。
心中渕 落越(おっこし)地先の柿木川の渕の名。
稲こき場 西山田地内。屋号にもなっている。
百八ぼっ田 渡毛山田地内。斜面に一坪程度の田が百枚以上あった。
地蔵の下 御燈ノ先中ウタリの一部を称する。御燈ノ上の堂には地蔵尊をまつってあったのだろうか。
臼ノ沢 奥が行き止まりになっている沢。
うしが畑 本沢の一部の地名。由来は不明。
湯ノどう 樽の沢尻の一部で、湯の道か。意味は不明。