門野原の由来

 旧名は神戸原(かんどのはら)でしたが、文禄4(1595)年の荒間帳、延宝5(1677)年の伊豆順行記その他は皆、「豆州狩野内門野原(かどのはら)村」と現地名が使われています。
 群馬県にあった平井城が北条氏に攻められて落城し、その若君だった上杉龍若丸が湯ケ島まで逃れましたが、ついに自刃しました。その臣であった神戸次郎右衛門が、後を慕って来ましたが、門野原で、主君の死んだのを聞き、悲しみのあまり自らも自刃したという説もあります。
 里人が遺骸を葬り祠を建て、その姓をとって神戸の原と呼んだということですが、記録によると、神戸は神尾の誤りで、確かなことはわかりません。現在下田街道から吉奈への分かれ道のあたりの小字を「神戸」と呼んでいます。
 一説には、どこかの神社の領地で「神土の原」といったともいう、との言い伝えもあります。属里(ぞくり)として持越があり、明治37年に分区しています。