金山の由来

 古老の話や、昔からの言い伝えによりますと、金山はその昔、徳川幕府の産金政策により、甲府金山の後に栄えた鉱山町であったそうです。
 持越川の左右の岸には、幾多の古い採鉱跡があります。地名にも「町」、「大王寺」、「二瀬目」、「三瀬目」などがあります。
 起源として「町」は隣の持越地区にある「山田町」のような特別区的色彩の濃い地名です。「大王寺」は、門前に当たるところに廻国供養塔があり、子供たちは「かんのんさん」と呼んでおります。また「二瀬目」、「三瀬目」は、罪人を責めたところと言われています。
 金山(かねやま)に多い名字は、杉山、田村、鈴木、早川、荻原などですが、多くは昔金山(きんざん)の栄えた頃に、人夫頭や役人が多くこの地を訪れ、そのような人達が土着したものと考えられています。
 この地区は徳川時代の頃、一時湯ケ島新田横沢村と呼ばれ、「横沢村の七軒百姓と人々が言っていた。」ということを古老に聞きましたが、金山の呼び名はいつ頃からなのかは、定かでありません。
 金山は、あるときは大きく栄え、あるときには小さい集落となり、この繰り返しをして現在に至っているそうです。猫越の斎藤姓は隣の西平地区から来たとのことです。