『増訂豆州志稿』に、「文禄四年(一五九五)『荒間帳』に豆州狩野之内矢熊村、その他の記載も皆同じ」とあり、はやくから現字名が使われていました。 矢熊とは『豆州志稿』に、「山隈」、『増訂豆州志稿』に「地形により、谷隈であろう」としるしています。隈は「ものかげ」や「すみ」の意味であるから、山隈は山裾、谷隈は谷裾で、「やぐま」は山や谷の裾の地と考えられます。 後世に、この「やぐま」の発音にあて字したものが矢熊(または弥熊)であり、狩猟民族が矢で熊を射て生活をしていたの原始社会だった、とまでは考えなくても良いようです。 |
田畑、民家。山林、子ノ神社(現矢熊神社)周辺の土地。 | |||||
田畑、民家。明治のはじめにつけた字。堀江姓が多く、堀江の元の意味か。 | |||||
田畑、民家。この地の上段にかつて紺屋があった。 | |||||
田畑、民家。かつて下り沢がこの地の前を流れ、川向こうの田の意味。 | |||||
民家。石ころ(グリ)が多く、グリ原の意味か。温泉の源泉がある。 | |||||
山林、畑、民家。江戸時代、雲金と山境争いがあった。由来は不明。 | |||||
田畑、民家。近くに稲荷神社、金山神社があり、祭りの踊り場であった。 | |||||
田畑、民家。鈴木家の旧宅を北と呼んでいた。その前の土地の意味。 | |||||
民家、畑、真正寺、集会所。すべて沢の意味。用水の取入口が多い。 | |||||
民家、田畑。村の真ん中に位置する地域。 | |||||
民家、田畑。かつて山越えして伊東へ通じる道があり、その入口付近。 |
古老の語る矢熊 矢熊には八つの川があります。そして、畑や水田も大変多い地区です。 昔の人々は畑のことを「ま」、水田のことを「く」と呼んでいました。これに八つの川の「や」を合わせて、集落を「やくま」と呼称していたと考えられます。 村落が全国的に出来たのは足利時代中期と言われていますが寛政(江戸時代)の頃には40戸あったと言われています。この頃の人々は牛を使い、農作業を行っていました。牛も家族同様に扱われていた訳です。 現在のお寺は、江戸時代中期に出来たそうです。 矢熊に多い堀江一族の先祖は、大仁町田京からの開拓者であろうとのこと。また、勝又という姓は、御殿場から来たという説もあります。 矢熊には縄文式土器や弥生式土器の出土もありました。これは、地区の歴史が古いことを証明しています。この縄文や弥生式土器は、昭和7年の道路工事により出土したものです。 |